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鈴鹿市は、東に伊勢湾、西に鈴鹿山脈と恵まれた自然環境の中にあり、伝統ある歴史と文化にはぐくまれ、生き生きとした生活ができるまちです。
昭和17年12月、軍都として2町12ヵ村が合併し、人口約5万2,000人から出発した鈴鹿市は、自動車産業など数多くの企業を誘致し、伊勢湾岸地域有数の内陸工業都市として発展してきました。
また、農業においても、恵まれた豊かな大地で、茶や花木をはじめ、水稲などの生産が活発に行われ、農業と工業がともに成長した「緑の工都」として現在に至っています。 |
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鈴鹿ナンバー誕生 |
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新しい地域名表示ナンバープレート(ご当地ナンバー)として、鈴鹿ナンバーが、市民の皆さまのご理解とご協力により、10月10日に誕生しました。
10月末現在で、すでに約3700台の鈴鹿ナンバーを付けた自動車が、市内外を走っており、好調な出足を見せています。
ご当地ナンバーは、今回初めて全国の18地域で導入が認められたもの
であり、その一つに「鈴鹿」が選ばれました。
三重県内では初めて新しい地域名が表示されたナンバープレートが誕生したことになります。
鈴鹿ナンバーは動く広告塔として、「鈴鹿」の名を全国に発信することができ、観光振興や地域振興の面での効果が期待できます。
また、全国から注目されることにより、市民や全国各地の鈴鹿出身者は、地元への誇りや愛着感を持つことができます。
今後は、鈴鹿ナンバーを付けた自動車の交通マナーの向上や、知名度を生かして「シティセールス」などをさらに推進し、魅力あるまちづくりを進めていきたいと考えています。 |
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郷土の偉大な文人 磯部 東流・長恒(とうりゅう・ながつね) |
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磯部東流は江戸時代中期の俳人で、松島屋という菓子商の子として、現在の鈴鹿市神戸に生まれました。
神戸藩主本多忠永(ほんだただなが)の門に入り、東流の号を与えられました。また、その子忠憲(ただのり)らに師事し、文政12年(1829)に没したと考えられています。
東流の子、長恒は、寛政9年(1797)に同神戸で生まれ、和歌や国学を白子の沖安海(おきやすみ)や伊勢の足代弘訓(あじろひろのり)らに師事しました。
また、最後の神戸藩主本多忠貫(ほんだただつら)の歌の師を務め、慶応3年(1867)に建碑された「山辺御井之碑(やまべのみいのひ)」(山辺町)の碑文の揮毫・作成などにもかかわっています。
このほか、俳諧や書、生け花にも通じ、町年寄として地域の指導にあたるなど、多彩ぶりを発揮し、明治3年(1870)に74歳の生涯を閉じました。 |
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(株)ぬし与仏壇店 |
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オフィスまいこママ |
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